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シリーズ ふざけるな!労政審A             かけはし2009.12.7号

これが使用者委員、公益委員の
ジコチュウ・身勝手意見だ!


〈3〉憲法、ILO条約違反?

発言@(公益、征矢紀臣、全国シルバー人材センター事業協会会長、10/7)
「登録型派遣の禁止はILO百八十号条約や憲法二十二条からみてもおかしい。登録型は家計補助的に働く人や年金者が多く使っている。これを禁じるのは公共の福祉、職業選択の自由に反しないのか」
発言A(使用者、市川隆治、前出、10/15)
「現在認められていることを法律で禁止するということは、権利を奪うことになる。一人でも権利が奪われた人がいれば、憲法違反で訴えることもできるのではないか」
発言B(使用者、市川隆治、前出、10/15)
「製造業への派遣を原則禁止することで、育児などによりフルタイムで働けない人達の勤労権、職業選択の自由を侵害するのではないか」

 ここに主張されていることはことさら批判することも恥ずかしくなるほどの暴論だ。苦し紛れのこじつけと言ってもいい。派遣の禁止が就業の禁止などではまったくないことは誰が考えても分かることだ。それは基本的に、人転がしで利益を得る中間搾取を規制し、企業の雇用責任逃れを許さないというだけだ。それこそ憲法の柱である基本的人権の保障そのものだ。そして労働者は誰も権利など奪われない。奪われる権利があるとすれば、それは中間搾取を行う「権利」であり、雇用責任を負うことなく労働者を使用する「権利」だ。しかしそれらは、元々不当かつ違法な行為であり、「権利」などと言える代物ではない。したがってそれらは奪うことにこそ本来的な正義がある。
 しかもここに述べられている主張には何のまじめさもない。それは発言@にも如実に表れている。ILO条約などがことさらに引き出されているが、その条項が明らかに間違っているのだ。百八十号は船員に関するものであり、派遣法の問題とは何の関わりもない。おそらく百八十一号(民間職業仲介事業)と間違ったのだろう。しかしそのような間違いを犯すこと自体、発言者が真剣に考えてなどいないことを示して余りある。そしてILO条約を持ち出すならば、その基準として確認されている「ディーセントワーク」に照らして議論することが本来の筋だ。そうすれば、「ディーセントワーク」とはかけ離れた派遣労働の実態こそがILO条約違反となることが明白となるはずだ。発言者にそうする気がないことは明らかであり、その点でもこの発言の不誠実さは際立っている。
 いずれにしろここから見えることは、派遣法改正抵抗派のなりふり構わない姿であり、大義のなさだ。それは派遣法抜本改正の闘いが身に帯びる社会的大義を照らし出すものであり、かれらにはまさに断固とした闘いによる逆襲を回答としなければならない。

〈4〉一時的需要への対応が不可能?

発言@(公益、岩村正彦、東京大学大学院法学政治研究科教授、10/7)
「育休の穴埋めは派遣となるが、二十六業務以外が禁止されたら一時的需要に対応できない。登録型を廃止する制度設計で対応できるのか」
発言A(使用者、市川隆治、前出、10/15)
「クリスマスケーキの製造のように一時的需要に応じて大量に人を募集する場合、知名度のない中小企業では人が集まらない。最近では、インフルエンザワクチンの製造に必要な有精卵の製造現場(目視検査)でも派遣労働者が活躍している。デジカメやケータイなどライフサイクルが短く、派遣でないと対応できない」
発言B(使用者、市川隆治、前出、11/10)
「例えば、アイスを製造する仕事は夏に、リンゴの芯を取る作業は十〜十一月に仕事が集中する。繁閑がある企業では、人員の調整が不可欠である」

 ここで述べられている主張もまた、「派遣労働でなければ対応できない」と言いつつ、その理由を何も語っていない。労働者からみれば、また派遣労働という無責任な雇用形態に不可避的にはらまれた破壊的な作用が歴然とした今、たとえ一時的需要への対応だとしても、職の紹介・斡旋を媒介とした直接雇用では何で対応できないのか、が問題なのだ。今ここに答えをもたない主張などまったく正統性がない。そこに触れずに語られることの本質は結局、その方が使用者には都合がよいということでしかない。そんな虫のよい主張など認められるわけがない。
 今さら言うまでもないが、一時的需要など、はるか昔からあったことだ。ここで挙げられているクリスマスケーキだとかアイスだとかの生産も昨日や今日の話ではない。派遣労働などなしにかつてはそれらに対応したのであれば、今それが不可能などという言い分は通らない。まして現在、生産を事前に計画化するための、冷蔵設備などのハードや、市場予測やそれらのための情報収集などのソフト両面における技術的手段は、かつてと比べて格段に充実している。にもかかわらず派遣労働がなければお手上げなどという言い分は、雇用責任を含め本来負うべきリスクを使用者は一切負う気がないと言うに等しい。しかしそのリスクは誰かが負うのであり、派遣労働という雇用形態は、それを何の責任もない派遣労働者に一方的に負わせる仕組みに他ならない。昨年秋以降の派遣切りの嵐は、その本質を見紛うことのないものとした。一時的需要を理由とした派遣労働温存の要求には根拠がまったくない。そればかりかそれは、不公正の助長だ。
 なお、発言@の中で示された認識には、労働者の権利保障に関わる重大な問題があるので特に触れておきたい。それは、あたかも当然であるかのように「育休の穴埋めは派遣となる」とされている点だ。それは労働者の権利行使を保障する企業内態勢整備に対する使用者の責任をまったく想定していない認識と言う他ない。「派遣を使うから責任を果たした」などとねじ曲げられては、育休を取る権利は、労働者全体の普遍的権利とはなりようがない。それは法的に確定した権利の骨抜きであり、脱法の勧めだ。法の研究者を名乗る公益委員として、このような認識が表明されていることには厳しい批判が必要であると共に、重大な警戒が必要だ。

〈5〉中小企業の求人が困難に?

発言@(使用者、石井卓爾、前出、10/7)
「地方の中小企業は人を雇えなくなる。製造業をどうもっていくのか、いろいろ考えた上での議論をしてほしい」
発言A(使用者、佐藤―後掲秋山の代理、10/15)
「なぜ中小企業で派遣を活用するのか、それは、必要な人材が必要な時期に確保するのが難しいからだ。これができなければ、海外にシフトしていくと公言している経営者もいる」
発言B(使用者、高橋弘行、前出、10/15)
「中小企業には人が集まらないという点も理解してほしい」
発言C(使用者、秋山桂子、山陽印刷株式会社代表取締役社長、10/27)
「(中小企業は派遣がなくなると困るのは)必要なときに必要な人材が確保できなくなることだ。中小企業は知名度がなく人が思うように採用できない。派遣以前に戻せばいいと言うが、パートやアルバイトの募集をするために求人誌や新聞に掲載してもらうには、頼んでから一週間後、それを見て応募してくるのがさらに一週間後、それに対応するために電話を受けて面接をして、というのは時間もコストもかかる。これをまとめてやってくれるのが派遣のメリットだ。現在、中小企業の受注量は大幅に減少している。対応するためには、すぐに人を集めて迅速に、一円でも安くやっていきたいというのが現状だ」
発言D(使用者、秋山桂子、前出、11/10)
「中小企業は知名度がなく、アルバイトを募集しても一カ月はかかるその間仕事ができない。この点、派遣という制度を利用すれば、スピーディーに対応できる。また派遣という制度がなくなれば、派遣で働いていた労働者は、求人誌を頻繁に見なければならないという手間になる」

 中小企業の求人難は昔から広く知られてきた。ここで出されている意見は、その一般通念を派遣規制反対の社会的大義にしようとするものだろう。しかしそれはまったくの問題すり替えだ。〈3〉の論点と重なるが、この問題で本来議論されるべき課題は、職の紹介・斡旋機能の充実だからだ。問題はそこで解決できるし、そこで解決されなければならない。
 現に八〇年代以前、現在と比べれば格段に失業率が低く、したがって中小企業の求人難がはるかに深刻だった時代、中小企業はそこで問題に対処してきた。困難は残り続けたとしても、派遣労働などというものに頼ることなく、その時代を中小企業は生き続けてきた。その事実が示すように、雇用責任の消失という、労働者にとっては猛毒を潜ませた間接雇用の派遣労働が、職の紹介・斡旋機能の場面に入り込む必要性も必然性も本来ない。ましてその猛毒が現実にすさまじい形で労働者をむしばんでいることが明らかにされた今、課題はむしろあいまいさなく真っ直ぐに、職の紹介・斡旋機能の充実に向け直されなければならない。そしてその点で言えば、厚労省が今進めようとしているハローワークの整理統合、すなわち公的責任による職の紹介・斡旋機能の縮小(政府責任の放棄)こそが、文字通りの中小企業いじめ、地方の求職者いじめとして、真っ先にまな板の上に乗せられるべきなのだ。
 しかも、派遣労働が職の紹介・斡旋機能の充実を助けるなどという関係には、実は何の確実な保障もない。営利事業としての人材派遣業には、その機能充実に責任を負う義務などないからだ。中小企業への労働者派遣は、求人規模が小さくそれゆえ求人当たりの手間が大きくなる。つまり収益という点では相体的に魅力が乏しい。したがって中小企業への派遣は必然的に後回しになるだろう。これらは容易に推測できることだ。前号で紹介した赤旗の調査は、厚労省の「派遣労働者実態調査」を基に、派遣労働者が就業している事業所割合を、五〜二十九人規模の事業所で一〇・一%、三〇〜九九人規模事業所で二八・七%、一〇〇〇人以上規模事業所で九三・三%と明らかにしている。求人に最も困難を抱えている規模の小さな企業ほど派遣労働には依存していない、あるいは依存できない、というこの事実は、先の推測の一端を正直に映し出している。要するに、本当のところは、派遣労働は中小企業の求人難を救ってなどいないのだ。
 実際、上に取り上げた意見が問題にしていることも、その核心は、求人難一般ではなく、明らかに雇用調整のための手間とコストだ。発言Cはその意味で正直であり、派遣以前に戻れない理由として、文字通り手間とコストを挙げている。逆に言えば、その手間とコストを除けば、派遣労働という雇用形態を必要とする理由は業務の上では何もないことを意味している。
 しかしその手間とコストこそ、労働者を雇い入れそれを源に利益を得る者が不可避的に負わなければならない責任なのではないか。その責任を逃れ、果実だけ欲しいという主張は余りに身勝手と言うしかない。ここにも明らかなように、派遣労働がその身勝手を許容する仕組みとして企業によって位置づけられている以上、その厳格な規制は避けられない課題だ。(つづく・神谷)


コラム
たまには休息も必要だ

 連れ合いに言わせるとボクは「無神経が服を着て歩いている」らしい。自分自身ではよくわからないが、あまりにもデリカシーがないようだ。デリカシーとは「繊細さ」や「優美さ」を意味するカタカナ言葉。つい先だっても、対処の遅れから些細なこと(ボクはそう思うのですがごめんなさい)が大事になってしまった。それこそ仕事から帰ってきたあとも夜中までみっちりと自己批判を迫られ、何度も総括がなっていないと責められる始末。深く考えないボクは「終わりよければすべてよし」、大概のことは一晩寝れば忘れてしまうのだが、連れ合いはそうはいかない。「一事が万事」を旨とし、寝れば寝るほど怒りが増幅する性格だから何よりも最初が肝心なのだ。
 何を持って些細なことと判断するかは、人によって異なるが、無意識のうちに行う「悪気のない行動や言動」が連れ合いの言うところのデリカシーのなさであることは間違いない。いわば無意識の確信犯というところ。「想像力の欠如」というお墨付きまでいただいた。
 「想像力とデリカシーの欠如」について自己批判ならぬ自己分析をすればこうだ。仕事に追い回されて、気持ちにゆとりが持てない。目の前のことばかりに気を取られて、物事を大局的に見ることができない。いかに効率よく生産性をあげられるかばかりに意識が集中してしまう。
 極めつけは書店に行って本を手に取る時間もない。つまり無機質な働き方を延々と続けているのだ(毎晩遅くまで仕事をして、土曜日も日曜日もないときたら家庭崩壊ですよね。それでいて稼ぎも少ないときたらもっと怒られます)。笑い話だが、ある占い雑誌の「ケータイ心理テスト」をやってみたらこう判定された。「あなたが日常生活で不足しがちなパワーは、想像力。常に現実に追われ、空想の世界に遊ぶことも、何かを頭の中で発展させていく時間も取れていません」。いやはやこれには驚いた。わりと当たるもんですね。合掌。
 「あんたは文筆業なんでしょ。少しは気の利いたことは言えないの。文字と言葉を仕事にしているのに」とは連れ合いのお言葉。「ボクは文筆業じゃありません。編集者です」なんて反論しようものなら、それは大変なことになるという想像力くらいは身についたが、物事をじっくり考える余裕がないのは前述した通り。
 だいたい原稿を依頼されても、心の中から湧きだしてくるようなテーマがなかなか見つからないのだ。締め切りを伸ばしてもらってもこの有様。我ながら編集者が聞いて呆れる。
 そこで働き方だが、心のゆとりを失うような過密スケジュールは人間をダメにしてしまうというのが結論。連れ合いはもちろんのこと、人に対する優しさを失っては元も子もない。まして想像力がこれ以上低下したらお先真っ暗。労働は尊いものだが、忙しいだけでは工夫も発展も生まれないと改めて思う。
 ちなみに先の「ケータイ心理テスト」で連れ合いが不足しているパワーは、「包容力」だった。(雨)


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